インドネシアのジャワ島中部、マゲランの盆地にあるボロブドゥール寺院遺跡群は、仏教的あるいは、密教的宇宙観を象徴する巨大な立体曼荼羅であると言われており、世界最大の仏教寺院であると言われています。
ボロブドゥール寺院は建造物としても美しく、明け方の霧がかった寺院に朝日が照らし、その光によって、寺院にかかった霧が、太陽が昇るにつれて徐々に蒸発していく姿を見るのも美しく、たいへん綺麗な観光地です。
しかし、ただただ綺麗、ただただスゴい、で終わってしまうのは非常に勿体なく感じてしまいます。
目で見て美しい、五感覚で感じて美しい。にプラスして思想であったり、この寺院を通して何を伝えたいか?を理解して、理解で美しさを感じられることによりボロブドゥール寺院の素晴らしさが更に深まると考えています。
今まで個人的にボロブドゥール寺院について調べたことをまとめて行く記事にし、寺院観光の参考資料となれば幸いです。
ではどうぞよろしくお願いいたします。
ボロブドゥールの本質へと迫る
・ボロブドゥール寺院とは何か
ボロブドゥール寺院遺跡群は、インドネシア、ジャワ島中部、8〜9世紀のシャイレーンドラ朝時代の大乗仏教遺跡です。
ボロブドゥール寺院は未だに謎が多く残された世界文化遺産ですが、仏教の宇宙観を立体曼荼羅(マンダラ)として表現されていることがわかっています。
知らない言葉や難しそうな言葉がたくさん出てきますがすぐに理解できますので順を追って説明します。
シャイレーンドラ朝についてはこの記事で説明しますが、大乗仏教や曼荼羅については別記事でまとめています。
・大乗仏教
紀元前後から1世紀に成立したと考えられる仏教の一派。密教の教えである仏の世界観を絵にしたもの。
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・曼荼羅
仏の悟りの境地。また、その境地に備わる功徳を絵にしたもの。密教の教えである仏の世界観を絵にしたもの
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・功徳とは
神仏からよい報いを与えられるような、よい行い。世のため、人のためになる、よい行い。
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つまり、立体曼荼羅とは、本来、形にすることは不可能な世界である、仏の悟りの境地を、あえて絵ではなく、形にしたもの
なのでボロブドゥール寺院全体は仏の悟りの境地を表しているとなります。
そして、ボロブドゥール寺院を建造したとされるシャイレーンドラ朝にも多くの謎が残っています。
シャイレーンドラ朝はどこからやってきて、なぜ寺院建造をし、なぜ発展したのか?の謎については明確な根拠がないので現代でも解決には至っていないそうです。
シャイレーンドラ朝
・8世紀〜9世紀あたりのジャワ島中部事情
5世紀頃、ジャワ島西部地方(スンダ)にあったタルマ国には既にヒンドゥー教が伝わっていたとされています。(だいたいこの辺)
ジャワ島中部には、それより遅れ、年代が確認されるのは732年のチャンガル碑文が最初となりました。
仏教については、中国文献によると6世紀前半には伝わっていたとされており、ジャワのカラサン碑文によると778年となっています。
シャイレーンドラ朝の前のジャワ島中部の支配権は、古マタラム国にありましたが、古マタラム国開祖のサンジャヤ王(717年から746年まで王を務めた)はシヴァ神を信仰していました。
※「古」があたまにつく理由はマタラム国家は支配権がなくなった後、もう一度復興しており、復興前には「古」があたまにつくようになっています。
その後、752年にシャイレーンドラ朝に支配権が移ります。
778年、カラサン碑文によると、シャイレーンドラ家の王師たちが、パナンカラン王に「女尊ターラー」をまつる寺院の建設を進め、その聖女と大乗の戒律を守る修行僧のための僧院が寄進された。とあるそうです。
つまり、パナンカラン王含む古マタラム国、ジャワ島中部が中心としてきた宗教はシヴァ神であったが、何らかの形でシャイレーンドラ家へ支配権が移るとともにジャワ島中部の人たちが中心とする宗教が大乗仏教に切り替わった。ということになります。
そして女尊ターラーとは、インド、チベット密教において重要な地位をしめていた女尊であるそうです。
シャイレーンドラ朝期のジャワ島中部の大乗仏教というのは、密教を取り入れて新しい文化、思想を形成していたことがわかります。
そして女尊ターラーをまつるためのボロブドゥール寺院建設だったのです。
そして密教といえば曼荼羅です。ワクワクしてきましたか?それとも文字が多いですか?まだまだ続きます。私はワクワクしています。
・シャイレーンドラ朝とは
シャイレーンドラ朝はボロブドゥール寺院と同様に現在に至っても謎が多く残されており、どこから来て、どのように成立し、なぜ大発展にまで至ったのか。の経緯については、根拠がなく、ほとんどわかっていないそうです。
・シャイレーンドラ朝とは
シャイレーンドラ朝は、8世紀半ばから9世紀前半にかけて、ジャワ島中部に建てられた王朝で、シャイレーンドラとはサンスクリット語で「山からの王」「山の王家」という意味であり、王家はサンスクリット語と北インド系の文字を使用し、大乗仏教を信奉していた。
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また、
シャイレーンドラ(山の王)の意味からして、インドシナ半島の古代王国の扶南のプノン(山)と関係があり、扶南国の後継者にあたる見方もある。
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・扶南国
1世紀から7世紀にかけてメコン川下流域(現在のカンボジア・ベトナム南部)からチャオプラヤーデルタ(タイに流れる川)にかけて栄えたヒンドゥー教・仏教(5世紀以降)の古代国家。
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扶南国は1世紀から始まった東南アジア最古の国家ということで長い歴史がありますし、メコン川周辺から、ヒンドゥー教の神像や仏像、漢の鏡、ローマのマルクス・アウレリウス金貨が発掘されていることから、当時の扶南国は充分に財産がありそうです。
そして扶南(カンボジア)にはいくつもの山があります。
現在カンボジアの首都はプノンペンですが、プノンとは日本語訳すると山や丘という意味です。
シャイレーンドラ朝が扶南国から来た者とすれば、「山の王」の名前の由来であったり、後に発展したことの説明がつきやすいのではないでしょうか。しかし、根拠がないので証明することは難しいでしょう。
ここでは上記の理由からシャイレーンドラ朝とは大王パナンカランによって、扶南国の王族たちへ与えられた称号とします。
・シャイレーンドラ朝はドコから来たか
扶南国は、1世紀から7世紀にかけて、東南アジアの中でも最長の河であるメコン川下流(現在のカンボジア、ベトナム)から現在のタイ、バンコクにかけて栄えた大国であり、東南アジア最古の国家で5世紀には交易国家として全盛を迎えましたが、クメール人(カンボジアを中心とする東南アジア民族)の王国、真臘(しんろう)によって628年に扶南は滅んでいます。
真臘は扶南国の属国でしたが新興宗教に若干の違いがあります。
扶南国はヒンドゥー教と仏教ですが真臘はヒンドゥー教とシヴァ信仰です。
扶南国の文化を取り入れ、国として真臘が出来上がり、扶南国を滅ぼすことで真臘の文化が成長している歴史過程があります。
親子喧嘩みたいなことでしょうか(←軽。)
628年、扶南国滅亡前に扶南国の王族たちは滅亡を恐れ、タイからマレーシア、スマトラ島、ジャワ島へと逃げたのではないでしょうか。
扶南国は海域を利用しての交易を行なっていたこともありますので安易に移動できたかもしれません。
つまり、シャイレーンドラ朝は扶南国からやって来たとなります。
・シャイレーンドラ朝、大発展の謎
ジャワ島の西の島、スマトラ島にてシュリーヴィジャヤ王国が550年に扶南が起源となって建国されています。
後にシュリーヴィジャヤ王国は、貿易や征服を通じて地方の支配をはじめ、交易帝国となりました。
そしてシュリーヴィジャヤ王国について調べていると、シュリーヴィジャヤ王国によってシャイレーンドラ朝を建国した可能性があることがわかりました。
扶南国が起源となった王国ですので、シャイレーンドラ朝はやはり扶南国の人たちと言わざるを得ないです。
そして貿易のやり方は扶南国時代のやり方でやれば良いですし、交易ルートだって扶南国時代に使っていたルートを使えば発展は安易にできたことでしょう。
なぜか、シャイレーンドラ朝は急発展したように思われていますが、ずーっと大きくなるための準備を続けていたかのように思います。
つまり、大発展の理由は扶南国時代からの財産を持ちながら、シュリーヴィジャヤ王国時代にも交易を通して財産を増やし、国民を増やしながら金と人が増幅していった。
そしてジャワ島中部で扶南国、シュリーヴィジャヤ王国の一部がシャイレーンドラ朝となって、シュリーヴィジャヤ王国と手を組んで大発展を遂げたのではないでしょうか。
ベトナムの碑文(真臘時代)からもシャイレーンドラ朝が攻めてきたという事が残っているそうですが、何も知らない人たちが攻め入るのは難しいでしょう。
おそらくすでにある程度の土地の理解がある人、海域の理解のある人たちでないと難しいことでしょう。
つまり全く無知な王国が攻め入ることは不可能でベトナムを攻め入るようなことを考えることもしないのではないでしょうか。
大発展の謎は、シャイレーンドラ朝はすでに大昔から大発展していた。となります。
ボロブドゥール寺院の目的とは
女尊ターラー(密教)をまつるための寺院建設ということで建てられたボロブドゥール寺院ですが、大乗仏教と密教を掛け合わせているので、同時に自分たちの思想を反映させていると考えます。
大乗仏教の根本的な思想は「空」とされており、「空」の状態で観ること、すなわち、大乗仏教の到達点でもある「空観」を寺院に反映させたのではないでしょうか。
空観の世界が密教の曼荼羅で表現されているということです。
・女尊ターラー
この菩薩は、観音菩薩が「自分がいくら修行しても、衆生は苦しみから逃れられない」と悲しんで流した二粒の涙から生まれた。右目の涙からは白ターラーが、左目の涙からは緑ターラーが生まれた。 彼女たちは「衆生の済度を助ける」と発願し、菩薩は悲しみを克服したという
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ちょっと長すぎますので、この辺で一旦区切りをつけ、別記事にまとめています。
最後までよろしくお願いします。
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